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成田 政雄

株式会社 ナリタ
代表取締役

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ご挨拶

神のなすことはその時に叶って美しい。
これは聖書の言葉です。
歴史のいたずらか運命のいたずらか、
父母は戦前に日本に渡ってきました。
それから40数余年、
父母は6人の子供を育てあげました。
その苦労たるや
並々ならぬ困難があったことと思います。

創業の歴史

【創業経営者】

成 斗甲(成田達紀)
ナリタの創業者であります、
成 斗甲(日本名 成田 達紀)は
1918年12月25日に
韓国慶尚北道清道郡角南面九谷洞で
農業を営む成家の長男として生まれました。
生まれて10才にして父親は亡くなり、
残された母親と妹3人の
貧しい田舎暮らしをしていました。
その頃は毎日の畑仕事と
山へ薪(たきぎ)拾いをして
生計を立てていたそうです。
数年後に人生の転機が訪れます。
日本の九州の炭鉱へ行くこととなります。
そこでの労働は過酷を極め、
多くの仲間が死んだと
父は当時の出来事を
幼い私に話してくれました。
父は仲間と2人で密かに脱走を図ります。
暗闇の中、追ってを気にしながら
夜汽車にとび乗ります。
しかし汽車の中で検閲があり、
走っている列車から飛び降り、
無我夢中で山中に逃げ込んだそうです。

【老婦との出会い】

逃げ込んだ先の農家の牛小屋に隠れ潜んでいた時、
そこに住んでいた老婦が人影を感じ、
何も言わずに、
そっと握り飯を置いていってくれたそうです。
何も口にしていなかった父は、
その握り飯を無我夢中で食べました。
翌朝、行くあても無かった父は、
恐る恐る納屋から出て、
恩を受けたその老婦の農家で、
1ヶ月程野良仕事の手伝いをしていたそうです。
父にとってその老婦は命の大恩人であり、
生前はそこに行って何とかお礼をしたいと幼い私に、
小さなやかんに入ったお酒を飲みながら語ってくれました。
それから先のことは記憶に空白があり、
父はいろんなことをしながら日本列島を北上したそうです。
記憶で残っているのは、
新潟県三条市の小さな小屋の2階で、
その日くらしの生活をしていたと聞いています。

【母との出会い】

父は新潟の地で、兄を頼って韓国より来日した
金 甲粉(成田 佐千子)と知り合い結婚しました。
父は27才、母は18才。
その2年後 昭和21年
私、成 基龍(成田 政雄)が誕生しました。
当時の父の仕事は新潟、東京、横浜、名古屋、
大阪との間を生活必需品を交換する
『ブローカー』みたいなことで生計を立てていたそうです。
それはその日暮らしの生活です。

【成田商店の創業】

子供も生まれ、
いつまでもその日暮らしでは生きていけないと、
新潟の地を離れ、東京、横浜、川崎と南下し
名古屋の地(現在の本店の場所)に
3坪ほどのバラック小屋を借りて、
親子3人で商売を始めたのがナリタの創業です。
昭和23年のことです。
当時の名古屋駅西側の駅裏は国際マーケットと呼ばれ、
200から300軒の店が集まりとても活気にあふれ、
大変盛況で繁盛していました。
名古屋市内に住む方は勿論のこと、
国鉄中央線沿線の三重、岐阜、長野県からも
物資を求め多くの方々が買出しをし、
人々でごった返していました。
当時はとても治安が悪く、
毎日のように殺人事件があり、
交番前には必ず死体があるという有様でした。

【市場調査】(マーケットリサーチ)

一番最初に父はここでの商売は何がいいかと考え、
知恵を絞ったそうです。
近くの区役所に行き、東海三県に住む
在日朝鮮人の人口を聞きに行ったそうです。
今で言うところの市場調査です。
区役所の受付の人に聞くと約136.000人だと言います。
そこで朝鮮人の食生活に欠かすことができない
乾燥した唐辛子やスケソウダラを売ることを思いつきます。
戦後の物資が無い時代です。
商品は店頭に並べば朝鮮人だろうが、日本人だろうが
食べ方・使い方なんて関係なく飛ぶように売れていきます。
当時は、20キロ袋に入った乾燥唐辛子の粉末を仕入れて、
それを小分けして販売するという商売です。
子供の頃の両親の思い出は、
朝早くから夜遅くまで働き、
夜は夜で次の日の唐辛子を
夫婦で毎晩カンテラの明かりの下で
汗びっしょりになりながら、
唐辛子を小分けをしている後ろ姿を記憶しています。

【口コミ】(徳を積む)

毎日本当に多くのお客様が来たそうです。
まさしく繁盛店の誕生です。
口コミで
「ナリタは安くて良い品を売っている」
と大評判です。
この話しには『オチ』があり、
忙しいにもかかわらず、お金が残らないのです。
商売を始め3ヶ月もしたら、
父が日本に来てから様々な仕事をして
必死になって貯めてきた元手のお金が底を尽きます。
「朝早く、夜遅くまで働き、毎日が忙しく、
大勢のお客様が来るのに何故お金が残らない・・・」
「仕入業者への支払いと生活費で、
元手のお金も底を尽く。商売やめて新潟へ帰ろうか・・・」
夫婦二人で話し合った結果あることに気がつきます。
よく良く考えれば、
仕入れた価格そのままで販売していました。
小分けしても一切の利益をのせていなかったそうです。
それは安いはずです。
今となれば笑い話しですが、
ナリタが今日まで継続してこられたのは、
創業の3ヶ月間の父母の築いた『徳』が、
今のナリタを支えてると思います。
当時の人達は皆そうでしたが、
何をするにも一生懸命でした。
休日なんかありません。
みんながみんな生きること、
生活することに必死です。
競争です。


元気な声が飛びかい名古屋の
駅裏全体が活気にあふれていました。
それがナリタの創業期です。

【後継の決意】

そんな父母の姿を長男として間近に見て育った私は、
大学を卒業したら父の
仕事を継ぐんだと固く決心していました。
昭和45年4月に父の元に帰り
成田商店で働かせて下さいと言ったときの
父の明るく優しい笑顔を思い出します。
父が基礎を作り、
私がその上に花を咲かせることが
私の役割であるとその時、考えました。


【成長期】業種・業態の特化

私は、在日の方々の様々な要望・要求に耳を傾け、
商品を提供してきました。
その中で焼肉店を創められる方々に対して、
調味料・食材・食品を提供してきたのが
現在の会社の成長の基礎に繋がります。
焼肉材料・食材専門店への
業種転換と業種の専門特化です。

経営ビジョンの構築

ナリタの経営ビジョン

『日本中の食卓にナリタのコチジャンを!』

※韓国食文化の普及と啓蒙

年間約2トン(21731.4キロ)の販売実績
※(2007年4月1日〜2008年3月31日まで)


そんな中、私は知恵を絞り、様々な試行錯誤と研究を重ね
『ナリタのコチジャン』を製造しました。
私は、幼い頃から韓国料理を食べて育ちました。
コチジャンは
焼肉店・韓国家庭料理には欠かせない調味料です。
日本の味噌や醤油のようなものであり、
ワサビのような使用方法もあります。
調味料ですから、食事のメインになることは無く、
決して華やかでは無いかもしれません。
しかし美味しければ必ず必要とされるものです。
そんなナリタのコチジャンの美味しさを
日本中に広く知ってもらいたい。
日本の家庭料理に
広く使用してもらいたいと強く願っております。
それこそが韓国調味料を通じて、
韓国食文化が真に理解されるものと確信しております。
在日として生まれた私にとって、
『韓国は生みの母、日本は育ての母』
であります。
現在では年間約10万人の方々が来店されます。
韓国食文化を少しずつではありますが、
ご理解してくれていることと思っています。
私は、韓国の調味料・食材を通じて
両国の友好親善に貢献すること。
ナリタで働く社員さんと共に
理念を達成する為、ビジョンを達成する為、
存続・成長・発展していくこと。
地域社会に必要とされる会社を目指し、
ナリタの使命である
『韓国食材を通して豊かで明るい家庭作りに貢献すること』
この実現に向かって誠心誠意、努力して参ります。
まだまだ未熟な至らぬ会社です。
どうぞ、今後ともご支援の程、宜しくお願い致します。

株式会社 ナリタ
代表取締役
成田 政雄